CONTEXT DESIGN WORKSHOP-機能と装飾・機能と象徴


2010.7.3.

コンテクストデザインワークショップ
機能と装飾・機能と象徴

@NPO法人東京自由大学


蚊取り線香は、渦巻き形状という装飾的かつ象徴形状をもっているが、耐久性や省スペースという意味で合理的な形状でもある。
機能と装飾・機能と象徴は一見相反しそうな概念であるが、装飾の機能や象徴の機能といった両者の重なり合うところを探った。なかなか難しいテーマであり、今後も続けてゆきたい。
写真は、波模様をした格子の模型である。この波模様の形状がもつ作用が格子という機能にどのような影響を与えているだろうか。
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CONTEXT DESIGN WORKSHOP - 書体ともの

2009.8.9.

コンテクストデザインワークショップ
書体ともの

@NPO法人東京自由大学



ゲスト講師:仲崇霖(書家・アートスクール銀座書画研究員書画講師)




文字とは何だろう。
篆書体を見ているとそんな疑問がわいてくる。篆書体は、古代中国の文字。
古い文字は、単なる記号ではなく形に力がある。篆書体は、漢字の先祖であり、古代中国の象形文字と隷書をつなぐ中間的な形である。
丸みを帯びておおらかなその書体は、どこかにその意味の原型であるものそものの力や存在感を残しており、ものの息吹を伝える。

文字のカーブや飛び出し方、配置などはその文字のセンスであり、その文字の世界に対する判断力である。そんな篆書のセンスのまま、実際に使えるモノへと文字的な造形を立体化したらどんな道具になるだろうか。

そんな思いからこのワークショップはスタートした。

仲先生ははじめに大きな半紙をホワイトボードに貼って、筆で板書を始めた。まずは篆書の特徴をつかむことと篆書の練習である。

「走」という字は、人が走っている姿と、その足跡(止まるという字は足跡の象形)からできているという。
 けれどもそれを知ることは知識であって、重要なのはその造形である。くにゃりと曲がった感じ、筆の弾力性を活かして描いた赤ん坊のような太く柔らかな感じ。野生そのものではなく、少し整理され様式化された感じがうかがえる。曲線は野生の表現でもあるのか。

ある程度、篆書の気持ちに体が馴染んできたところで、今回の目的である文字の立体化にとりかかる。

参加者は、はじめ生活の中の道具、例えば、ポットや台や文具などをイメージする。と同時にそのもののシルエットを篆書体の気持ちになって、その造形スタイルで、文字のようであると同時に絵のような感じで描く。
それを型紙にコピーして発泡スチロールに貼り、ニクロム線カッターで切りだす。
気がつくと文字が立体になっているばかりか道具になっている。

今回のワークショップを一言でいえば、「使える文字!」である。しかしこれは文字を文字として読むために使うのではなく、生活の中で使える道具が、文字のようなエネルギーを醸し出しているという意味で「使える」と言っているのだ。


これは文字風のデザインをあしらったというようなものではなく、装飾と力の古い時代にあった関係にも迫るような試みである。付け替え可能なただの飾りとしての装飾ではなく、呪力をもった力の源としての装飾と文字と図像の境目を旅するデザインである。

古代文字には実に驚くべき造形のものが多いのと同時に、全く遠く離れた地域の文字同士が、シンプルな形状においては大変よく似た形をしているということに人間のイメージレベルでの共通性を感じる。

ヒエログリフ、イースター島文字、クレタ島文字、マヤ文字、神代文字、ひふみ文字、楔文字、甲骨文字などさまざまな魅力的な文字がある中で、篆書は、現代の文字と深古代の文字をつなぐ、記号化された文字と象形文字の中間にある文字にように思える。またその曲線のセンスが面白い。


そんなわけで今回は篆書という文字にフォーカスして、ものを「概念化すること」と「書くこと」と「描くこと」と作ることをつなげるワークショップを行った。


文字には、イメージや概念を限定し定着する働きもあり、そこからイメージや概念を喚起する働きもある。その両義性も面白い。

そして何より文字は形とイメージと機能を体現するものとして、道具の究極の姿であるともいえるのではないだろうか。


そんな文字の成り立ちに立ち会うには、文字を書き、描き、作ってみるのがいい。うまい字を書こうとするより、心をこめてただ書く、ただ作る、そのプロセスを味わう中に生き生きとしたものが出てくるという仲先生の言葉が印象的であった。
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CONTEXT DESIGN WORKSHOP - 境界の曖昧なロボット


2009.7.5.

コンテクストデザインワークショップ
境界の曖昧なロボット

@NPO法人東京自由大学



ゲスト講師:大澤博隆(工学博士・慶応義塾大学理工学部研究員)



テーブルの上に拳銃や革などのものが多く置かれているとケンシロウの声がする。
また、手帳や経済誌などのビジネス的なものが多いと島耕作の声がする。
そこに何か雰囲気的な境界の曖昧な存在感が生まれる。

これはいわば、WEBカメラとペーパータグと、液晶による目および口デバイスと、スピーカーを使ったシンプルなインタラクションで実現されているロボットのようなものだ。
この場合ロボットとはそこに漂う存在感に人格を与えたもの、といった程度のことである。


境界は、名前と関係が深い。

境界とは、名前のついたエリアとエリアの境目のことである。

女性的な小物が散らばったテーブルには女性的な、あるいはもっと年齢や趣味が限定されたものが置いてあればそのような雰囲気が漂う。だがそこにはまだ名前はついていない。名前はないけれど名付けてもいいような特徴ある空間が存在する。名前をつけると輪郭が生じる。あるいは逆に輪郭のある存在は名前を要求する。

その輪郭は、形の輪郭であるだけでなく、意識の輪郭である。

輪郭は、境界がはっきりしているものもあれば、境界が曖昧な物もある。後者でいえば、

・霧の輪郭
・ツキノワグマの生息地の輪郭
・混雑の輪郭
・民族の輪郭

など曖昧なものは多い。

しかし、そのまだ名前がない散らばりに何かを感じる。

そこに何かを見出す人にしか認識されない。

今回の境界の曖昧なロボットはそんな、認識の次元、あるいは認識の周波数を探るささやかな試みなのだ。
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次回のコンテクストデザインワークショップ


来週の日曜日2月22日にワークショップを行います。日常では忘れがちな深い背景とのかかわりをテーマとして東京自由大学という場所で行っている「コンテクストデザインワークショップ」です。

毎年この季節は、友人のデザイナー三浦秀彦さんにゲスト講師をお願いしています。今年のテーマはエネルギーですが、タイトルは「エナジー・ポエジー」です。エネルギーを詩的に見ることに挑戦します。


会場:東京自由大学(神田紺屋町)
時間:13:00-18:00
参加費:一般 ¥2.500 会員・学生¥2,000
http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/



フライヤーからの抜粋です。

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エネルギーは実質的に社会を駆動させる源であると同時に自然や現象との関わり方を示すものです。一見、対極にある「エネルギー」と「詩的なもの」を直結させ、日常の中のささやかな「精神の生態系」を構想します。今回は、最も大きな生命の基盤である太陽とそのエネルギーにフォーカスし、光、熱、時、気象、電磁波、発電、などの包括的な視点で意味の組み替えと生活との関わりを考察します。

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            *


これについてさらに考えました。



地球上のすべてのエネルギーは太陽から来ている。とはよく言われる。
自分がパソコンのキーを打つ力ももとはと言えば・・・   いや、腕は力を緩めれば勝手に下がる、これは位置エネルギーだ。つまり重力だ。
もとい
石油が枯渇し、氷河がとけたり天変地異がおきたり、精神や健康や食糧や経済に異常が起きたりする、環境破壊、精神破壊問題から経済システムや生活の見直しが叫ばれ、またその流れの中で自然エネルギーが脚光をあびている。
しかし、今日明日で自然エネルギーだけでは現在の都市文明を賄いきれないから原子力発電に期待がかかっている。

ところで、先日出版された竹村慎一さんの「地球の目線」という本に書いてあったことを私なりに言い換えると、原発がよくないのは、結局現在の社会スタイルや、消費スタイル、ライフスタイルを張りぼてのまま維持させてしまうからということであった。張りぼてというのは、一見持続可能なように見えているが、実は原発利用社会は自然のサイクルとつながっていないという意味である。

それは、「空になった燃料タンク思考」ともいえるだろう。
つまり、エネルギー問題を空になった燃料タンクのように考えていると、空になったらまた入れればいいじゃないか、とカッコにくくって考えてしまい、その燃料がどこから来るのか、どこへいくのか、そのすごい燃料でできることは、地球や身体的自然のしくみからはみだしていないかということを考えなくなってしまう。

エネルギーをただの動力源ととらえない考え方がいま必要だ。

自分には関係ない、とにかくなんでもいいから新エネルギーがあればもとの生活を維持できる、持続可能=現状維持可能生活を送れるんだという考え方とは違う見方、つまりエネルギーがどこからどのようにやってくるのかという大きな文脈の中でとらえ、さらに欲望ではなく自分の身体や精神に見合ったバランスでエネルギーを流し、つながっているものとしてとらえる見方、それがエナジー・ポエジーということではないか。

エネルギーをただの動力源ととらえない考え方、それは、エネルギーを家の外の石油タンクに備蓄しておくのではなく、部屋の中につれこんで
エネルギーと一緒にごはん食べたり、読書をしたり、歌を歌ったり、しゃべったり寝たりという、エネルギーと一緒に住もう、過ごそうという考え方ではないか。

エネルギーをパッケージ化しない、乾電池化しない、ガスボンベにしない、開放系のエネルギーってどんなものなのでしょうか。


            *


さらに数日たって三浦さんとの対話の中でまた考えました。



アインシュタインのE=mc2やエネルギー保存の法則からすれば、すべてはエネルギーだと言える。

エネルギー保存ということからすればエネルギー問題はないのだが、問題になるのは、目の前に薪がありながら火がないために暖をとれず凍死してゆくような状況である。

つまりエネルギーがあっても、それを必要な状態に変換できないと人間はそれを使うことができないということである。何のために使うかというと、自然に逆らうためである。魔法のように。

寒い時に温かくしたり、暑い時に涼しくしたり、手では切れないものを切ったり。頭では計算できないことを計算したり。走る以上に速く移動したり。それは火の原理のように思えるなぁ。

一方、詩(ポエジー)というのは精神を豊かにしたり、高める働きをするものであると考える。それは自然に逆らわないような働きであると思う。するとそれは水の原理ともいえそうだなぁ。だとすればエナジー・ポエジーは、火の原理・水の原理と置き換えられるのではないだろうか。


いつものことだが、このワークショップは終わるまでどんなワークショップになるのかはわからない。そこへ参加してくれる方々には本当に感謝している。今回はどんなワークショップになるのか楽しみである。
| コンテクストデザイン | 18:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
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